全豪オープン2012シングルス出場者の血液型
テニスの2012年全豪オープン(1/16~1/29)シングルス本戦出場者の血液型は次のとおり。
錦織圭 A型
伊藤竜馬 O型
森田あゆみ A型
クルム伊達公子 B型
ちなみにダブルスで森田あゆみと組んだ藤原里華はAB型。
| 固定リンク
テニスの2012年全豪オープン(1/16~1/29)シングルス本戦出場者の血液型は次のとおり。
錦織圭 A型
伊藤竜馬 O型
森田あゆみ A型
クルム伊達公子 B型
ちなみにダブルスで森田あゆみと組んだ藤原里華はAB型。
| 固定リンク
昨年の暮れにコメディアン・俳優で書評家と多彩な活躍をした内藤 陳さんが亡くなった。先日去年亡くなった人で血液型の判明している主な方々の記事を書いたが、その中には入れていない。本当は内藤 陳さんもリストに入れたかったのだが、血液型がわからなかったのだ。
じつは数年前に内藤さんとはとある席でご一緒したことがあり、少しだけお話もさせていただいた。とても物静かだったけれども存在に深みがあり、印象に残っている。ご冥福をお祈りしたい。
ところで、ぼくたちは身近に接した機会が一度でもあれば、その人の雰囲気くらいは直接感じ取ることができている。顔つきとか動作の感じとか、身体の使い方とか何でもいいのだが、全体から醸し出されるものをどこかで受け止めているのだ。
だから、内藤さんにお会いした時の感じは、今でも覚えていると言ってもいい。もしも血液型がわかっていれば、自分のなかで貴重な血液型ごとの雰囲気のパターンの事例として加えることができたに違いないし、考察も進んだかもしれない。
そういう意味では同じく去年亡くなったコメディアンの坂上二郎さん(AB型)もとある場所でごく至近距離で拝見したことがある。何も話さなかったけれど、独特の華があって、さすがだなと思って見ていた。この場合は血液型がわかっているので、自分の中でAB型の雰囲気の事例として参考にしている。
俳優やミュージシャンなどの多数の人に記憶が残る人達の血液型がわからないまま、その人が亡くなってしまうのは悲しいことだ。そういった人達の特別にトレーニングされ、研ぎ澄まされたこころの印象を解析する機会が永遠に失われるからだ。
| 固定リンク
2012年1月7日に共同通信が配信したニュースに血液型のことが出ていた。
星座、血液型基準に採用 中国、企業に批判も (47NEWS)
要するに中国の民間企業が特定の星座や血液型を採用条件としたという話だ。元記事を探したらあったので、リンクしておく。
元記事のタイトルには血液型は入っていない。この記事によるとたしかに2010年12月にとある物流企業が星座と血液型を参考にしていたと書いてあるが、記事の印象からすると中国では血液型より星座のほうが盛んな感じだ。
これは私が中国のサイトを見ていて感じる印象と同じだ。また、ネット上の記事ではこの種の報道はたまに見かけるので、こういったことはよくあることなのだろう。たしか5年位前の記事では中国の企業ではB型が人気だと書いてあるのを見た覚えがある。
ただ、中国でこういった話題が日本のように大きな社会問題になるようなことはないだろう。なぜなら、民間企業がこういった基準で人を採用できるようになったということ自体が、中国が自由になってきた証拠なので、むしろ喜ばしいことだからだ。昔の人民公社の時代を考えると、感無量だ。
| 固定リンク
年の瀬に当たり、今年亡くなった著名人で血液型が判明した方を挙げてみました。
掲載順序は最近亡くなった方からさかのぼっています。
合掌
杉原輝雄 プロゴルファー O型
森田芳光 映画監督 B型
立川談志 落語家 AB型
西岡武夫 政治家 A型
北杜夫 作家 O型
柳ジョージ 歌手 B型
滝口順平 声優 O型
竹脇無我 俳優 A型
梅本竜 作曲家 A型
日吉ミミ 歌手 A型
前田武彦 タレント A型
松田直樹 サッカー選手 A型
伊良部秀輝 野球選手 A型
小松左京 SF作家 A型
原田芳雄 俳優 A型
TAIJI ギタリスト A型
宮尾すすむ 司会者 A型
川上とも子 声優 O型
長門裕之 俳優 A型
藤間哲郎 作詞家 O型
児玉清 俳優 O型
上原美優 タレント A型
田中実 俳優 O型
田中好子 歌手(キャンディーズ) A型
いいだもも 作家 O型
佐藤忠良 彫刻家 A型
坂上二郎 コメディアン AB型
小林アトム 俳優 A型
細川俊之 俳優 B型
高見澤宏 歌手(ダークダックス) B型
| 固定リンク
各記事にアクセスしやすいようにまとめました。
2) 全体の傾向と個別の事例
3) 個人差を考える
4) <死>としての放射能
5) デジャヴュ
6) 1ミリシーベルト
7) 受容のプロセス
8) お天道様
9) 言霊の呪縛
10) 民主主義レッスン
| 固定リンク
10)民主主義レッスン
あまりだらだら書いても仕方ないのでぼちぼちやめるが、ぼくが『A型のこころ』のなかで提唱したのは、血液型の考察から導き出された、多様な価値観をもつ人々が共に生きていけるような社会(簡単に言えば民主主義)を目指すべきだという方向性だが、現在の日本社会はそういった社会からははるかに遠い世界だという気がする。
最初に書いたが、100mSv以下の放射線量の人体への影響はわからないのだから、土地の汚染状況や食品汚染の具体的な数値を明らかにして、あとは個人の判断と責任で行動してください、ということでいいのではないか。多様な価値観と書くとわかりにくいかもしれないが、ようするに100mSvまで全然OKという人もいれば、ほんのわずかな放射性物質も嫌だという人もいるから、そもそも意見がまとまるわけがないし、まとめる必要もないということだ。
原発の必要性についても、必要だからこのまま稼働すべきという人がいてもいいし、やめるべきだという人がいてもいい。世界には様々な価値観が存在していて、自分とまったく意見の違う人もたくさん存在している。そしてそれぞれ自分と意見を同じくする人が連帯して協力することで自分たちの意見を社会に反映させていく。それが成熟した民主主義の姿だろう。
脱原発デモをやってもいいし、原発推進デモがあってもいい。お互いの主張をぶつけあえばいいではないか。ぼくたちはもっと政治的な主張をすべきだし、議論が足りなすぎる。たとえば原発について朝から晩まで様々な人達がずっと討論しているテレビチャンネルが一つくらいあってもいいくらいだ。
ぼくの考える血液型によるこころの違いという視線で社会をみると、社会はいつもまったく住む世界の違うような人たちが、お互いにその違いに気づかないまま営なまれているようにみえる。自分の正しいと思った判断だけで物事を進めようとすれば、それとはまったく異なった価値観で判断された意見と衝突し、あつれきが生じ、争いが生じるのは当然だ。
ぼくは血液型の考察を通してそうした結論に達したけれども、今回の放射能汚染について考えても同じような結論に到達することはできる。危険か安全か、どちらかに決めようとするから混乱するのだし、こういった政治的な対立を解消するようなシステムがうまく機能していないからいつまでも問題が放置されるのだ。(了)
| 固定リンク
9)言霊の呪縛
カミガミの話をするのはヘンだろうか?
ぼくは、「原子力は安全だ」という宣伝が必要だったのは、日本社会にまだ言霊信仰のようなものが残っていることが原因の一つだったのではないかと思っている。
もしも言葉にすることである事が現実化してしまう恐れがあるなら、原発の危険性を話題にして詳細に検討したりすること自体がその危険性を現実化させ、増大させてしまうし、「安全だ」という呪詞を繰り返し唱えることは安全な状態を実現させる最も大きな力となるだろう。
そう考えると「健康に影響ない数値だ」とか「福島第一原発以外の原発は安全」とか「大きな津波はしばらく来ない」とか「原発は冷温停止状態になった」といったよく聞く言葉は論理的に考えるとおかしいのだが、呪詞として考えると納得がいく。おそらくこういった言葉はすべて言霊信仰からきているもので、発言している人も聞いている人も、呪詞と同じものとして捉えているのではないか。
もちろん個々の発言は政治的な思惑などがあって発言されているに違いないのだが、それにしてもこんな言い方で通用すると思っていて、それが実際に通用してしまう構造のなかに言霊信仰が潜んでいないと誰が言えるだろうか?
これは脱原発運動のなかにも見られることだ。今回の事故で原発が爆発したら危険であることが誰の目にも明らかになったわけだが、それが一気に原発全廃といった主張に飛躍してしまうのは、危険だと判断したものを無くせば安全になると思っている部分があるからであるように視える。それは危険性を見ないようにして安全だと言っていたことの裏返しで、物事は危険か安全かでは割り切れない在り方をしているということを考察していないように思える。
また、何らかの理由で原発をやめることができない政府からすると、一度停止してしまうと再稼働が難しくなるとか、安全性を考えると修理や改修が必要だけれど地元の理解も得られなくなるからこのまま運転しようとか、本当は古い原発を廃止して新規に安全性の高い原発を作りたいんだけど無理そうだから古いのを眼を瞑って運転させよう、といった判断をせざるを得なくなるかもしれない。そうしたら安全を追求しようとして行なった脱原発運動が原発の危険性をより増大させてしまうといった結果になるかもしれないのだ。
論理的に考えると、事故原因を解明するまですべての原発を緊急停止させ、原因が明らかになったら安全対策を施して順次再稼働させるのが妥当だと思う。その際に危険性をどう評価するか、場合によっては廃炉にしたり移転させたり作り直したりしなければならなくなるから、その対策のためにどこまで費用をかけるか、それができないなら代替エネルギーはどこまで利用できるか、などが徹底的に議論されるべきだろう。すべては現状を安全にするにはどうすればいいのかにまず焦点を当てる必要があるはずだ。
とにかく今は再びあのような事故を起こさないために必要な対策を打つことと高線量地域に住んでいる人々をできるだけ被爆から守り、必要なら避難・移住させることを最優先にすべきだ。そのためにはもう言霊的な考え方は捨てて、事実を見つめてタブーなく自由に、しかし冷静にあらゆる議論を行っていく必要がある。
現実にはリスクはたくさん存在している。原発と放射性物質はそのうちの一つにすぎない。そこから始めないと、脱原発なんてできないと思う。(つづく)
| 固定リンク
8)お天道様
今回の原発事故によって、ぼくたちは先祖代々受け継いできた貴重な日本の自然を自ら汚してしまった。それだけではなくて、その自然に現れるアニミズム的なカミガミと、カミガミを祀る社と樹木、そして仏性の宿る山川草木、なによりそういった自然に寄り沿い、共感して生きてきた日本人の感性と魂も汚した。この傷は深く、どこまで痛手を負ったのか、未だにわからないほどだ。
これまでも広島・長崎の原爆や世界各国による大気圏内核実験、チェルノブイリ原発事故などによって降下したであろう放射性物質の広範囲で大規模な汚染はあっただろうが、それらはいずれも日本人以外の手によるものだった。事故とは言え、今回初めてぼくたちが自分で汚してしまったのだ。ぼくは一人の日本人として、ご先祖様たちに申し訳ない思いでいっぱいだ。
ぼくたちはこれからどう考えて生きていけばいいのだろう?
セシウムなどの放射性物質は人工的に作られたとは言え、もともと自然にあったものの形を変えただけとも言えるから、核エネルギーだって自然のエネルギーだ。そもそも太陽は自然の核融合炉のようなものだから、放射線がそこらじゅうに溢れている状態こそ宇宙にあまねく存在する自然の姿だと言っていいかもしれない。しかしぼくたちは放射線とは共存できない。
日本人は昔から太陽をお天道様と呼び、感謝と畏敬の念をもって接してきた。それは「お天道様に顔向けできないようなことをしてはいけない」といった言い方でもわかるとおり、生き方や倫理の規範としてぼくたちを導いていたと言ってもいい。天照大御神が太陽神であるというのはそういうことだ。
だからそんな太陽と同じ次元の核エネルギーは、ある意味で究極のエネルギーと言ってもいい。ぼくたち人類がそれを手にするに値するかは別として、すでに手にしてしまっている以上、それに対応する新しい倫理や考え方が必要となるだろう。
ぼくは今まで自然と交感するような感性のあり方や生き方を意識して追求してきた。血液型の問題もその一つだ。人間は自然の一部として生きるのがいいのではないかと考えているからだ。しかし今回の事態はもっと先まで行ってしまった。正直に言えば、とりあえず、こんなのお手上げだ。(つづく)
| 固定リンク
アクセスカウンタを設置してみました。
ただしカウントできるのはパソコンユーザーからのアクセスのみです。
携帯などのモバイル環境からはだいたいこの半分くらいのアクセスのようです。
<参考>
直近4カ月のアクセス数は次のとおりです。
PC
アクセス数合計:19,945(日平均:190)
訪問者数合計:9,942 (日平均:95)
携帯
アクセス数合計:10,716(日平均:102)
| 固定リンク
TOYOTAプレゼンツ FIFAクラブワールドカップジャパン2011 (2011/12/8-18)柏レイソル登録メンバーの血液型は次のとおり。
GK
桐畑 和繁 A型
稲田 康志 O型
菅野 孝憲 O型
DF
中島 崇典 A型
近藤 直也 B型
酒井 宏樹 A型
増嶋 竜也 B型
パク・ドンヒョク(韓国) B型
橋本 和 B型
MF
大谷 秀和 B型
澤 昌克 AB型
レアンドロ・ドミンゲス(ブラジル) 不明
兵働 昭弘 O型
ジョルジ・ワグネル(ブラジル) O型
安 英学 A型
田中 順也 AB型
茨田 陽生 O型
栗澤 僚一 B型
水野 晃樹 AB型
山中 亮輔 A型
FW
北嶋 秀朗 O型
林 陵平 A型
工藤 壮人 O型
監督
ネルシーニョ(ブラジル) 不明
| 固定リンク
7)受容のプロセス
エリザベス・キューブラー=ロスは死に瀕した患者との対話のなかで、5つの段階の死の受容のプロセスを発見した(否認―怒り―取引―抑うつ―受容)。
がんなどで死を迎える患者は、突然死する人とは違って死を迎えるまでに時間があるから、自分が死ぬという事態を死ぬかなり前に知ることになる。誰も最初は「私ががんで死ぬはずない」などと事態を否定するが、やがて「なぜ私だけが死ななくてはならないのか」といった怒りに襲われることになる。そのうち「どうにか死なないで済む方法はないだろうか」と取引しようとし、それも不可能だと悟るとふさぎこみ、最後に死を受け入れて死んでいくというプロセスだ。もちろんすべての人がこの5段階を経るわけではないし、最初の段階で留まって死んでいく人もいるだろう。
たしか吉本隆明氏はこの死の受容のプロセスは、人が新しい事態に直面した時の心理的なプロセスにもあてはめることができるのではないかと指摘していたと思う。実際、ぼくも今回の事故による放射能汚染については、被ばくは避けられないのだと思うようになったのは最近のことだ。まだ抑うつの段階を抜け出しているわけではないが、このプロセスと同じような段階を踏んで苦しんだと思う。はっきり言って辛い体験だった。
今のところこの程度の放射性物質の汚染レベルであれば健康には影響がなく、暫定基準値以内であればまったく心配ないといった説明がなされているので、大多数の人々はまだこのプロセスにすら入っていないと言っていいだろう。がんで言えばまだ告知すらされていない状態だ。
しかし多少なりとも放射能の危険性を考えている人であれば、多かれ少なかれ死のリスクも考えるから、いやでもこのプロセスに入ってしまっていることだろう。客観的に見れば、脱原発運動はこの「否認―怒り―取引」の3つの段階のどこかに入ることになる。
今回の事態が複雑なのは、がんで言えば、腫瘍はたしかにあるのだがそれが悪性か良性かで医師の判断が分かれているような状態だからだ。もしも100ミリシーベルトまで本当に安全なら、心配はあまりいらないということになるし、そうでないなら心配するにこしたことはないということになる。それに加えて政府の対応がどうしても信頼できない感じがしてしまうので、不安が増してしまっているということだ。
ところでこれは血液型の問題にも似ている。本当は血液型の問題は、自分で制御できない、血液型によって異なるような心の領域があることを認めるか認めないかという問題だと言うこともできるが、ぼくから見ると、血液型の影響を否定する人の多くはこの心の領域が自分にもあることを受け入れることができなくて否定したり怒ったりしているように視えるのだ。(つづく)
| 固定リンク
6) 1ミリシーベルト
現在の日本の法律では、一般人が一年間に浴びる線量の限度は自然放射線を除いて1ミリシーベルトと決まっているらしい。その数値にどの程度の根拠があるのかはぼくにはわからないが、法律ではそういうことになる。専門家が叡智を注ぎ込んで作った法律だろうと考えていたから、みんな守っていたのだ。
ぼくは、今回の事故は国家的な危機だと思うから、緊急時の措置としてという但し書きつきだが、事故直後からある程度の被ばく量は引き受けざるをえないと考えたし、実際にもうすでにある程度被ばくしていると思う。だから問題は今後どれだけ被ばく量を抑えられるかにある。
そしてとりあえず5ミリシーベルトとか20ミリシーベルトという暫定基準値が出てくるのは仕方がないとも思っている(高いとは思うが)。なぜなら、1ミリシーベルトを厳密に守っていたら、東日本に人が住めなくなってしまうからだ。そんなことは現実的とは言えないし、事故の影響が(今のところ)この程度で収まっていることがすでに最大の幸運だし、現場で踏ん張っている人たちの功績なのだ。
だからぼくは事故当初、現状1ミリシーベルトとなっている法令を期限付きで改正するために、国会で数値目標をかかげながらどのくらいに設定すべきかという議論がなされ、首相から国民への詳細な説明と協力の要請があるはずだと考えていた。
その前提としてすでに山林に降り積もった大量の放射性物質が風にのって流れてくる場合の予測がなされたり、街のあらゆる場所の線量を調査して可能な場所から官民総出で除染したり、食物の数値ができる限り正確に公表され、西日本の農産物を組織的に東日本に誘導したり、円高を利用して外国の農産物を緊急措置として大量に安く輸入したりして、できるだけ被ばくを抑える対策もまたなされるだろうと思っていた。
しかし実際には唐突に暫定基準値が決まっただけだった。ぼくは、いったい今の政府は法律というものを何だと考えているのだろうかとショックだったし、そんな状況に疑問を持たないように見えるマスコミの報道や、法律を変えるなら国会で議論しろと声をださない日本人にあきれた。柔軟でいいとも言えるが、こういった法意識に欠ける部分があるのは日本社会の病のようなものと考えてもいいのではないか。
ぼくは1ミリシーベルトにこだわっているわけではないが、このような重要な数値を変えるならそれなりの説明と手続きは必要だと思っている。少なくとも、民主党は野党時代に「説明責任」という言葉を強調していた政党なのだし、事故直後の文字通り「緊急時」ならともかく、もう9カ月も経っているのだから、もう少しなんとかならないのだろうか。せめて子供や妊婦、妊娠可能な女性だけでも別の暫定基準値を設定できないのだろうか。それともまだ「緊急時」で、どうにもならないということなのだろうか。
ぼくは『A型のこころ』のなかで、日本は法律と実態が乖離しているものが多くて、とくにA型の人はそんな状況にやりにくさを感じているはずだと述べたが、どうやら放射線量に関する基準値もそういった事柄の仲間入りをしたようだ。(つづく)
| 固定リンク
5)デジャヴュ
放射能について考えていると、ぼくはどうしてもある出来事を思い出す。あれはおそらくぼくが中学・高校生くらいだから、1970年代のことだ。ぼくは母が長野の出身だから、夏休みはよく伊那谷の母の実家に泊りに行ったものだ。隣は親戚の家で、その家のりんご農園が庭のすぐ先に拡がっていた。
その頃はまだ農薬の害についてはあまり認識されていなくて、村には大きなコンクリート製の農薬を調合するプールがあちこちにあって、村中のりんご農園は一夏に何回も農薬を散布するのだった。農薬散布車はけっこう大きくて、ミキサー車のミキサーのかわりに大きな散水車がついているイメージだろうか。いったん稼働するとものすごい音をたてて白い水を地面に垂直に扇状に散布していた。それがリンゴ農園の中に入っていくのだ。
母の実家はリンゴ農園に隣接していたので、農薬散布が始まると洗濯物を大急ぎで取り込み、家のすべての窓を閉める必要があった。そうしないと農薬だらけになるからだ。翌日になるとガラスについた農薬が乾いて白いまだら模様が浮かび上がるほどだった。
母はそのころ始まっていた生協運動にも関心があったので心配したが、村の人達は無関心で、隣の親戚の家などは農薬散布中に子どもを外で遊ばせていたくらいだ。その親戚の子はぼくよりかなり年下だったのであまり一緒に遊ばなかったけど、高校生位の時にがんで死んでしまった。
ぼくの記憶では、農薬を大々的に散布し始める前は蝿がすごくたくさんいて、食卓の上には蝿取り紙がいつもぶら下がっていたけれど、そのうちにあまり見かけなくなった。小さな虫もめっきりいなくなったと思う。そういえば今年は小さな虫が少なかった印象がある。塀の上のほうで大きなナメクジは見かけたが、小さなのは見なかった。団子虫はいつもよりいたような気がするが・・・。
だからぼくは、みんなが放射能なんて大丈夫だと言っても信じられない。親戚の子ががんになったのが農薬のせいかどうかはわからないが、自分のなかでは十分ありうることだと判断しているからだ。あの頃だって今の放射能と同じように、誰も農薬なんて気にかけていなかった。ぼくにはいつか見た光景とだぶって視えるのだ。
ここでそんな昔話をしても仕方ないかもしれない。でも今50歳位から上の人達は、この種の話はたくさん見聞きしているはずだ。どうして警戒しないのだろう。放射性物質は農薬と違って見えないし無味無臭だからわかりにくいのかもしれないが、ぼくには不思議で仕方がない。何より、あれほど農薬の害に対して熱心だった生協が、放射性物質に対してはなぜか意識が鈍い感じがするのが残念で仕方がない。人間というものはまったく新しい事態には対応できないものだということだろうか。
それにしても、これくらいの考察を普通にできないなら、人の血液型別の違いの観察と考察なんてできないのではないかという疑問は残ってしまう。(つづく)
| 固定リンク
4)<死>としての放射能
そろそろ本題に入るが、3月11日の地震とその後に起きた原発事故によって、ぼくたち日本人はかつて誰も経験したことのない世界へと突入してしまったのだという認識は、きっと誰もが同意してくれることだろう。たぶん当時の首相は東日本が壊滅することも考えたに違いない。SPEEDIの予測を伝えなかったのは、東京も含めてこれから死ぬだろう人達に死ぬかもしれませんが逃げてくださいとは言えなかったということだろう。そう考えると担当者を責める気にはなれない。
ぼくたちは今もなお正確な汚染状況を知らないわけだから、ただ政府が大丈夫だと言うのを信じて従うか、それは信じられないと疑問に思うか、どちらかの態度しかとりようがない。量の多少はともかく、とりあえず今まで被ばくしたし、今も被ばくしているし、これからも被ばくしていくということだけが確かなことだ。そしてどうやら活発になりそうな地震活動(とそれに伴う津波)にどこまで既存の原発が耐えられるのか、はなはだ心許ないというのが現状だ。
これはある意味でがんの告知の問題に似ている。医者も家族も大丈夫だと言って正確な病状は教えてくれないのだが、どうも本当のことを言っているようには見えない。実際病は良くならないし、自分の身体のことは自分が一番よくわかる。でも心配かけまいとする周囲の気配りも理解できる。だから患者本人は自分一人で死と向き合いながら、表向き家族や医療関係者には気づいていないふりをしてやりすごすのだ。
もちろん放射能は「ただちに健康には影響ない」から、影響が出るとしてもまだ先のこととなるが、それがいつのことなのか、内部被ばくも合わせて考えるとよくわからない。とくに子ども達が大人になるまで余裕があるのかどうかがわからないから、不安は増すばかりだ。
つまりぼくたちはこれからずっと、このままではそのうち誰かにやってくる「死」を意識しながら暮らしていかなくてはならなくなった(「確率的にがんになる」というのはそういうことだ)。もともと誰でも死ぬわけだし、死のリスクは他にもたくさんあるから、本当は昔からずっとそうだったのだが、震災と原発事故でそのリスクがより大きくなって目の前に突きつけられてしまったと言うべきか。
たとえばこれを<死>の眼差しと言ってもいいのだが、放射性物質は見えないしそこらじゅうにあるから、映画「マトリックス」の世界のように、ぼくたちは一気にそんな眼差しの存在する世界へワープしてしまった感じだ。それは、もう今までの気楽だった世界とははるかに隔たった世界だ。ぼくたちはそんなところまで来てしまった。ただテレビなどの大手のマスメディアが方向転換できずに今までのやり方を続けているだけだ。
でも本当は、ぼくの考える血液型によるこころの違いの世界は、この<死>の眼差しによってよりはっきりと浮かび上がってくるような世界だ。それに様々な宗教や思想・文学・哲学をはじめとして、そんな世界を生きている人々は今でもたくさん存在している。とくに怖れる必要はない。(つづく)
| 固定リンク