柳田國男の奄美
民俗学者の柳田國男が1921年(大正10年)に奄美大島に旅行した時の記録の本を読んでいたら、唄についての記述が何カ所かあった。
同年2月8日に名瀬から西仲間へ向かう途中で和瀬峠の茶屋に立ち寄った時から、翌日古仁屋に至るまでに書かれたと思われるメモにはこうある。
○和瀬峠の茶屋 盆に二枚の葉をしき、地酒といひて味醂のやうな酒をくれる。かごしま製のよし、
○峠の茶屋にて蛇皮線をきく マンマ節、ママアンマなり、沖縄のもの、ひく人は土地の人、紋付
またこんな記述もある。
○糸満人は名瀬海岸にも多く往来す。古仁屋には久高シンツ(ツの右上に半濁音符)ウ漁業をなす。正月なれば三線ひく。十島村中にも所々に居る由、横当島は絶壁そばたてる無人島なれど、此にも来往して時々漁獲を名瀬におくり来る云々
○大島の歌、半分是も沖縄なり。
文明の混淆を意味す。
今の奄美大島を見ているとちょっと想像がつかない記述で、ぼくにはどう考えればいいのか、よくわからない。でも柳田國男は那覇から名瀬に入っているので、もしかしたら柳田の旅行を手配した人が沖縄の人だったので結果的に沖縄の民謡を見聞きする機会が多かっただけなのかもしれないとも思う。それでも今よりたくさんの沖縄の人々がいたことは想像に難くないし、明治時代・そして江戸時代はもっと多かったかもしれない。
どうしてこんなことが気になるかと言えば、シマウタを取り囲む環境は時代や地域によって様々で、いろんな要因が影響して成立しているのではないかと思うからだ。そして、こういった沖縄の人達とは特に交流もなく、シマの中だけで伝承されていたシマウタもまたたくさんあったのに違いない。











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